学校法人朝日学園 明生情報ビジネス専門学校

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とても痛い話

 パプアニューギニアの高校では教員が何か一つ学生のクラブ活動に関わることになっていた。それで空手部を作って学生たちを指導することにした。大学のとき同好会に入って空手をちょっとやったことがあったから。
 練習を始めてしばらくたったとき、学生がブロックを持ってきて、「先生、割って。」と言った。大学を卒業して20年そんなことはやったことがなかったので、内心やばい、と思ったが引っ込みがつかず、偉そうに「おう!」と言う。
 ブロックを割るには全身を使う。脚の上下運動、腰の回転、腕の振り下ろしなどを利用して、腕全体をムチのようにしならせ、手の平の側面(小指と手首の間)をブロックに叩きつけ、割る。ブロックが割れなければそこの骨が折れる。
私は全身の力を込めてブロックを打ったが、それを割ることができなかった。手に激痛が走った。学生たちは私に同情的で笑う者はいなかった。しかし、私は学生の前で面目を失ったことがとても情けなかった。そっちのほうが手の激痛よりずっとつらかった。
 悄然として車に乗る。右手は親指と人差し指だけでハンドルを持つ。そういう恰好で4,50分車を運転してうちへ帰る。それが木曜日。その晩は痛みで眠れなかった。
翌朝、一番で日本大使館の医者のところへ行く。医者は、「ふつうそんなところは折れませんから、たぶん大丈夫だと思いますよ。」と言う。それでちょっと痛みが軽くなるような気がする。「でも、ま、一応レントゲンを撮ってきてもらいましょうか。」と言って、General Hospitalに紹介状を書いてくれる。また、人差し指と親指でハンドルを持って病院へ行く。写真をもらって、見ると、どう見ても折れてる。素人でもわかる。とたんにまた痛みがひどくなる。
 大使館に引き返し、医者にレントゲン写真を見せると、「あ、折れてるなあ。」と前言撤回。「こりゃあ、骨が折れてずれちゃってるから、手術が必要ですね。微妙な手術だからここじゃあやめたほうがいいな。日本かオーストラリアですね。1週間くらい入院することになりますよ。」
 オーストラリアで入院するのもいい経験になるかと思ったが、誰も世話をしてくれる人もいないところでは心細いので日本に帰ることにした。その日のうちに緊急一時帰国の許可を取り、学校、大使館などに報告し、翌日の飛行機の切符を予約する。家内に電話したら、「バッカねええ。ほんとにバッカねええ。」と呆れかえっていた。
 飛行機に乗ったのが土曜日、その日の夜遅く帰国。次の日は日曜日で家で待機。月曜日にようやく病院へ行く。見てくれた医者は大使館の医者と同じ見立てで入院せよと言う。それから言葉を続けた。「でも、生憎今ベッドがいっぱいで1週間待ってもらうことになります。」他の病院に行くことも考えたが、そっちでも待てと言われるんじゃないかと思い、待つことにする。その間、私の手の骨は折れっぱなし。
 骨を折って10日以上たって私はやっと入院した。手術の前日、若い看護婦が来て、「テーモーします」と言う。何のことかと思ったら、「剃毛」だった。私の上半身の毛を全て剃る。神経を集中して私の腕に剃刀を当てている看護婦の顔をかわいいなあと思いながら眺めていた。次におばさんの看護婦が来て、「カンチョーします」という。こっちは意味がすぐわかった。
 医者に麻酔について説明された。全身麻酔は2段階になっているそうだ。最初の麻酔で意識を最低レベルに下げ、次の麻酔で完全に意識を失わせる。私の場合、それほど大きい手術ではないから、第1レベルだけになるかもしれない。こっちは俎板の鯉。何を言われても「はい、わかりました。」と答えるだけ。
 手術の当日、注射をされ、ほぼ意識がなくなる。ところが、不思議なことに自分の周りで起きたいろいろなことをよく覚えている。
 ストレッチャーに載せられ、廊下を手術室へと運ばれる。私はストレッチャーの上で仰向けに寝て、通り過ぎていく天井の蛍光灯を見ている。それをよく覚えている。ベン・ケーシーみたいだ。
 手術室に入るとすでに医者や看護婦たちが待機している。みんな白衣ではなく青い服を着ている。晩御飯は何を食べるとか世間話をしている。
 私の受けた手術は、まず骨を引っ張って元に戻し、5センチほどの釘をX字型に2本骨に突き刺して固定するというものだった。「釘」を突き刺されたときは、すさまじい痛みだった。でも、夢うつつで、「いやー、いたいですねえ」とひとごとみたいに思ってた。
 1週間入院して、ギブスを付けたままポートモレスビーに帰任した。そして数週間後、もう一度日本に帰り、「釘」を抜いた。とても簡単で麻酔も必要ない。釘の頭を覆っている皮一枚を切開し、たぶん「釘抜き」で(私は見てないから確かではないが)釘を引っこ抜く。全然痛くなかった。
 1年後、別のことで整形外科に行ったとき、ついでに骨折の跡をチェックしてもらった。まったく問題ないと言われた。今でも、右の小指と左の小指の角度が微妙に違っている気がして、拳を作ったときに違和感を覚える。手先はとても敏感なところだからそれも当然だ。私に手術をした医者はとても腕がよかったと考えている。


パプアニューギニアはヤバいところで、事情をよく知ってるJICAの人に、PNGに2年行ってましたというと、「お勤めご苦労様でした」とヤクザのムショ帰りみたいにねぎらってくれます。PNGの最初の半年は不適応に苦しんだ。なにしろ最初の晩が例のタイコですからね。
 海外適応のU字カーブってあるでしょ。最初ハネムーン期でそれから、不適応が現れ、最終的に緩解するってやつ。一般的にはそうなんだろうけど、PNGじゃいきなり地獄へ叩き落されましたからね。
 着いて1ヶ月くらいして、胃が猛烈に痛くなって、JICA事務所の看護師に相談に行ったら、私の話聞いただけで、「あ、神経性胃炎ね。みんななりますから大丈夫です。」と言われた。そう言われてこっちも妙に納得して、それで気分がちょっと軽くなったのも可笑しい。
 そういう状況をやり過ごすために、私はここに書いたようなことをしていた。明日の朝までがまんしようと自分に言い聞かせ、それを繰り返して、なんとか心と折り合いをつけた。
 他の任国はどこもその国の人と同等レベルで適応して、公私共に生活をエンジョイしたけど、PNGだけは最後まで適応できなかった。ただ、苦しさに慣れただけだった。

 

荒川友幸
東京明生日本語学院 養成科主任
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